最近小室さんや机に刃物事件など皇族に関する様々な問題が注目を集めるにつけ、何かと学習院でなかったからなどと、議論されることが増えています。
皇族が学習院でなく、お茶の水など他校を選択した場合どのような影響があるのでしょうか?
なぜこのようなことにこだわる必要があるのでしょう?その成り立ちから見てみました。
学習院とお茶の水の違いは?
学習院とお茶の水の違いをその歴史から見てみましょう。
まず、現在の皇族の方々の学歴(大学まで)を確認してみましょう(Wikipedia参照)。
上皇様の3人のお子様は、秋篠宮様を含め、すべて学習院で学ばれていることがわかります。
さらに、常陸宮、三笠宮寛仁、高円宮、桂宮、やその子女、また配偶者さえそのほとんどが華族出身であるため、学習院を選択しています。
皇族のお子様方について、変化が出てきたのは最近のことです。
徳仁今上天皇のご息女愛子様は、今のところ、高校までですが、これまでと同じく、学習院です。
秋篠宮様のご息女眞子様と佳子様は、高校までは学習院でしたが、大学で、眞子様は、希望する科がないと言うことで、国際基督教大学(ICU)を選ばれました。
また、佳子様はいったん学習院大学に進みながら、中退して、眞子様と同じく、国際基督教大学に入りなおされました。
秋篠宮様の長男で皇位継承順位3位の悠仁様は幼稚園から学習院ではなく、お茶の水女子大付属を選択され、現在中学校に在籍されています。
これらが最近の様々な皇室をめぐる事件に関連付けられて議論されています。
・悠仁様の机に刃物が置かれた事件は、皇族の警備を熟知している学習院なら起こらなかったのではないか?
・眞子様の婚約問題は、国際基督教大学時代に同級生だった小室圭さんと出会われたのがきっかけで、秋篠宮と紀子様が、学習院大学で出会われたのと、状況は似ているものの、
皇族方や、そのレベル子どもが多い、学習院なら、もう少し情報が把握できていて、あとで、厄介な問題が出てくるような事態にはならなかったのでは?
・佳子様の姉眞子様を擁護する発言に対しても批判があり、これも学習院以外での教育や家庭内教育の影響ではとの説も出ています。
・悠仁様は、高校はお茶の水女子大学高校が女子校のため、他の高校に移る必要がある。
最初から学習院を選択しておけばよかったはずでは。
以上のように、学習院を選択しなかったことに絡めて様々な議論、批判が沸き上がっています。
では、学習院はお茶の水など他と特に皇族にとって何が違うのでしょう(Wikipedia参照)?
<学習院の創立と名称について>
1847年(弘化4年)3月に京都で、学習所と称して、公家の教育機関として開講しました。
1849年(嘉永2年)4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となりました。
これは、論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づいているとされています。
その後、1870年に京都の学習院は閉鎖されることになりましたが、1877年(明治10年)10月、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、次いで「学習院」の勅額が再び下賜されました。これが現在の学習院の創立となります。
戦後(1947年)、学習院は官立ではなく、私立学校になりました。
以上のように、学習院は公家の教育機関として開校されたもので、もともと皇族・華族の子弟を陸海軍のリーダーや政治家に育てるのがその目的だったということです。
一方、お茶の水女子大学は1875年に開校した官立の東京女子師範学校が起源で、戦後の1949年、国立学校設置法によりお茶の水女子大学となりました。
「お茶の水女子大学は、学ぶ意欲のあるすべての女性にとって、 真摯な夢の実現される場として存在する。」ことをその目的に掲げています。
また、国際基督教大学(ICU)は1949年6月15日に、御殿場のYMCA東山荘で開催された大学組織協議会に集まった日本と北米のキリスト教界の指導者たちによっての創設を決議され、キリスト教と国際化をその理念としています。
学習院が一般の学生も学ぶ場になっているとはいえ、皇族にとっては特別な学校であることは確かです。
学習院と皇室が昭和天皇の時代までは、切っても切れない関係であったのは次のエピソードで分かります。
乃木(希典)大将は、日露戦争の司令官としての任務を終えたのちに、明治天皇によって、孫の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を託すべく、乃木を第10代学習院長に指名されました。
乃木は乃木式教育として、全寮制をしき、6棟の寄宿舎を建て、学生と寝食を共にして生活の細部にわたって指導に努めました。
迪宮裕仁親王が学習院に入学すると、乃木は、たとえば通学を車での送迎を止めさせて、徒歩にさせるなど勤勉と質素を旨としてその教育に努力しました。
昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどであったと言います。
そして、乃木は1912年7月に明治天皇が崩御してから、3ヶ月後に日露戦争で多くの部下(自分のふたりの息子を含む)を失った責任をとり、天皇との約束通り、殉死します。
このように見て行きますと、皇室と学習院の結びつきは少なくとも上皇様の時代まで、非常に強く、他の学校を選択するなど考えられなかったのでは、と思えます。
皇族はなぜ二択なのか?
悠仁様が、お茶の水大付属の幼稚園を選択されたのは、紀子様がお茶の水女子大学で研究をされていたことと、
ちょうど大学で、女性研究者を支援するために、研究者の子供を特別に入園させる制度を創ったタイミングが合ったという事情があったそうです。
また、当時起こっていた愛子様のいじめ問題で、学習院が皇族を特別扱いしているのを秋篠宮家が、嫌ったのではとも言われています。
従って、学習院かお茶の水の二択とは必ずしもなりませんが、皇位継承順位の方が、どこの幼稚園、小学校でも良いと言うことにはならないでしょうから、また受験のたびに、ごたごたしない付属中学等がある幼稚園、小学校で、あるレベル以上の学校というと限られてくるのではないでしょうか?
例えば、付属系で、男子も入ることが許される幼稚園としては、次のようなところがあります。
慶應義塾幼稚舎
日本女子大豊明幼稚園
雙葉小学校付属幼稚園
青山学院幼稚園
お茶の水女子大学附属幼稚園
学習院幼稚園
但し、慶應義塾幼稚舎などは最難関といわれ、お受験して合格するのは大変なようです。
また、皇族の学習院離れが進んだ原因としては、次のような要因が挙げられています。
・国際化など社会の動きに比べ、学習院の大学改革の動きが遅いため、進学したくても希望する学科がない。
・皇族も個人の自由をより尊重する社会の風潮に影響されてきた。
・学習院へ行くのが当然という意識が、皇族と民間女性との結婚が増えることで、変化してきた。
上皇后美智子様(聖心女子大)、皇后雅子様(東大)
悠仁様の3年後の「高校進学」問題の記事について、ネットにコメントが多数集まっています。
皇族の学歴に関するネットの反応
秋篠宮夫妻には今一度ご再考していただきたいものです。
出典:ヤフコメ
最近、世間の風は何かと秋篠宮家に厳しいものが多いようです。
まとめ
学習院とお茶の水の違いなど、皇族の進学問題をまとめてみました。
ひところは、雅子様、愛子様への批判が激しかったのが、最近は、一転して、秋篠宮家に向かっています。
我々も、もう少しこのような皇族の問題を温かく見守ってゆく必要があるのではないでしょうか?
あの伝統ある英国王室のチャールズ皇子がなされたことに較べれば、どれほどの問題かとも思えます。
逆に言えば、日本国民は皇室への期待値が高すぎるのではないでしょうか?
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